ctrl+alt+delete...

何を見据え、どこへ向かっていくのか。テクノロジーの力を信じて、俯瞰しつつ道なき道を進みます。

各県市町村教委のもとに作られる動画コンテンツは誰に向けたものか?

どうも、おばんです。

タイトルにあるように、私の勤務校でも「子ども1人を市の教員全員で支える」という声のもと、市全体で小中学校合わせて800本の動画を作りました。

これらのコンテンツは誰に向けて発信しているのでしょうか?

 

一方的に子どもたちに与えるコンテンツは子どもたちのことを支えることになっているのでしょうか?

 

結論から申し上げますと私としては子どもたちに向けて発信していないと思います。結局、「アリバイづくり」なのかなあと。

ここで、goo辞書から、「支える」の意味を引用します。

ささ・える〔ささへる〕【支える】
 の解説
[動ア下一][文]ささ・ふ[ハ下二]
1 倒れたり落ちたりしないように、何かをあてがっておさえる。「太い柱で梁 (はり) を―・える」「―・えられてよろよろ歩く」
2 ある状態が崩れないように、もちこたえる。維持する。「一家の暮らしを―・える」
3 精神的・経済的に支援する。「地元の人達の声援に―・えられて選挙戦を勝ち抜く」
4 防ぎとめる。くいとめる。「敵の攻撃をかろうじて―・える」

1の意味と3の意味を用いたいと思います。

まず1の意味から、「倒れたり落ちたりしないように何かをあてがって押さえる」とあります。

ということは、我々は子どもの学びが倒れないように何かを何か支援を講じなければならないということです。

その一つの手段として、動画配信ももちろんあるとは思うのですが、一方的にコンテンツを発信するだけで倒れたり落ちたりすることを防ぐことができるのでしょうか?

まあできると思っていたらこのような投稿はしません。笑

3番の意味からしても、「精神的・経済的に支援する」とあるように、誰が作ったかわからないようなコンテンツに対して学び手はあまり心が揺さぶられないように思うんです。となると精神的経済的に支援できるのでしょうか?

まあ出来ていると思ったらこんな投稿しないんですけどね。(2回目)

 

私が思うに、血が通っていない支援内容では支えられないと思います。担任が動画を作ったとしても、です。「血が通う」というのは、流れるということ。血は心臓から出て体の各部分を巡り、また心臓に帰ってきます。

帰ってこなければ血は通わないのです。ただ単に出血するだけ。命を落とします。

 

動画コンテンツはこちらから発信します。市町村教委・学校から流れ出ていきます。が、現状帰ってきていますか?いいえ、帰ってきていません。

それでは意味がないと思います。

では、どうすべきか?と言われたら双方向にやりとりできる仕組みを導入すべきです。それはテクノロジーを使った方が簡単です。Google Classroomやスクールタクト、ロイロノートなど手段はたくさん提供されています。

アナログでもできます。書いてもらったものをコピーして配布する。

 

まとめます。

動画コンテンツはやっているアリバイでしかないと思います。

本当に支えるなら、人と人どうしをつなげる、やりとりできるようにしないと支えられません。

 

以上、おしまい!

学び方と自立 

「学び方が身についていない」というネットの記事を読んだ。

これ。

 

それは30年前から言われていることだと知って、非常に驚いた。30年間、学校教育では教科教育は行われてきたが、どのように学べばよいかという教育は行われてきていないということになる。

実際、私の経験として教科教育を受けてきた記憶はあるが、このように学習しましょうと学び方を学んだ覚えはない、もしくは忘れてしまっている。

 

子どもの学びについて全てを手取り足取りサポートするのは子どもの意欲を削ぐであろうし、何より子供の可能性を大人が潰してしまっていることになる。

そうではなく、学び方を学ぶことで自分で走っていくのではないか。

 

自分の経験から考えるに、学び方を学んだらあとは勝手に自走していった覚えがある。

私は高校生時代に競歩を始めた。合宿で歩き方の基礎を教えてもらったが、いつまでも教えてもらっているわけではない。合宿は3日間あったが歩き方をみっちり教えてもらったのは1日だけだ。教えてもらった基礎をもとに、基礎練習を徹底して反復し、練習を積み重ねていくことでフォームが改善されたり、タイムが早くなったりしてきた。完全初心者から高校3年までで5分は伸びた。冗談抜きに。

 

同様に、学習においても学び方を学び、時にその学び方についてフィードバックすれば、自然と学びが加速していくのではないだろうか?

 

では学び方とは何であろうか。

どのような学び方が子供が自立し、学び進めていけるであろうか?

学びは一人では成立しないと思う。もちろん成立させることは不可能ではないと思うが、人と対話をすることを通して理解が深まっていく。

また、意欲という面でも一人での学びの成立は初めは難しいかもしれない。まずは同じものを共に学んでいく中で、誰かが伴走していく中で知識を得て学びを知り、より深く学び進めていくんだと思う。

 

これから再度学校は休校に入るリスクが当然ある。どこかの学校または自分が勤務する学校もしくは自分自身がコロナウイルスに感染し休校に入って行くかもしれない。

そういった事態にも対応できるように我々は今オンラインで子どもと物理的に離れた環境であっても学びを支えられる環境づくりや、どのように学び進めていけばいいか自力でやることができる力をつけるべきではないだろうか。

「子どものため」という人は信用できない

かなりトゲトゲしたタイトルです。

 

が、タイトルは自分が思っていることです。

「子どものため」と言っておけば、何でも子どものためを思ってやっている感でるからいいよね!

「子どものため」というワードは優先順位を付けずにやれる魔法のコトバだと思います。そして、目的をもっている風をアピールできます。

 

そういう方は、正直信用できません。思考停止して、自分は子どもたちのためにやってます感出して、小手先の技術でやっているように見えます。

 

これからの時代、特にコロナショックで何もできない「公立義務教育学校」ということが露わになったところで、もう一度「子どものため」を考え直す必要があると思います。

そのために、「目的+身につけたい力(コンピテンシー)」ベースで考えていかなければならないと思います。

そもそも、学校とは「子どものため」にあるものじゃないでしょうか?その上で、「こんな力をつけたい、こんなことができるようになってほしい」ってあるはずだと思うのですが。

 

------------------------------------------

運動会って、何のためにやるの?

過去いた学校では、週の半分の時間以上(15時/30時)を使って練習に使いました。

その中には、2回も開閉会式の練習や何度もリレーの練習を行います。運動が好きな子はいいかもしれませんが、そこまで運動が好きではない子にとっては苦痛でしかありません。

なぜやるのか、誰も答えられません。反省になぜこんなにも練習するのか書いても「子どもに恥をかかせてはいけない。たくさん練習してちゃんとできないといけない。」とあって愕然としました。

------------------------------------------

 

心の声が漏れすぎたようですね。

今日はここまで。

楽しい感覚と「深い学び」

このブログの内容と少し話は違うが、最近私は走ることがとても楽しい。


何か目的があるわけではない。大会に出るとか、競技者として復帰するわけではない。

少し目標があるとすれば、学校は始まった時に子供達と遊ぶ際に少し体力をつけておきたいなというくらいは思っている。

 

ただ、そこまで体力がいる体力や走力がいるわけではないのでそんなに頑張る必要ないのだが、走りたいなと思う走ることがとてもワクワクする。

こういった気持ちはどこから湧いてくるのであろうか。

 

学習も同じではないか?

学校での学習すべてが何か将来のことに直結するわけではない。働き方が多様化した現代ならなおさらである。走ることと比べると、学習が役立つということに直結する面は多くはないであろう。
「何か役立つかもしれない」と言うイメージは学習も運動も同じような気がする。走ることでワクワクするように、学びにワクワクすることができるようにするためにできるサポートとは何であろうか?

 

学びに対してワクワクしたらここからまた休校に入ったとしても、子どもたちは自ら学び知識を駆動させていくであろう。

知識を駆動させていくことこそ深い学びであり、我々は支援していきたい。

 

 

 

深い学び

深い学び

  • 作者:田村 学
  • 発売日: 2018/04/20
  • メディア: 単行本
 

 

多様な世界

Twitter を始めて、早7年経とうとしている。

 

フォローやフォローバックする一方で、フォロー解除し、色々な人の意見を見たり見られたり、切ったりしながら7年間 Twitter を使ってきた。

特に大学で今の職につながる学部に進んでから、教育がタイムラインの色として強くなり様々な価値観について Twitter を通して拝見させてもらっている。

 

様々な価値観を Twitter を通して学ぶ一方で、価値観を見ることを通して自分の考えがブレるということも多々ある。

Twitter でも自分がいる目の前の世界でも、様々な価値観が存在しているのであろう。現実の世界では、そういった各々の価値観を言語としてあまり出さないために、それぞれの考え方の相違が見えにくい部分はあると思う。

一方で Twitter は主に言語にまとめて(落としこんで)発信するツールなので、言葉として自分の目にはっきりと価値観の違いが見える。

その部分が意外と厄介で、自分の軸がはっきりと持てないうちは結構 Twitter 等の意見に振り回されるということもあった、いや、今でもある。

 

様々な意見に感化されることは悪くない。それはそれだけ自分の感受性が高いからだと思うからだ。

一方で先ほども伝えたように、何でもかんでも感化されるようでは自分の軸がぶれ、それは結局子どもへの指導に悪影響として還る。

 

そうならないためにはどうすべきか。私としての答えは自分と対話してみることにあると思う。

ある価値観に対して自分は賛成か反対か、また、どうして賛成と思うのか?反対と思うのか?頭の中で整理したり書いて整理したりすることで自分の価値観を洗い出し自分の軸というものをはっきりさせられるのではないか。

 

結局人の正解は自分にとっての正解ではない。自分で自分の中の正解を見つけるしかないのだ。

そのためには対話をせねばならない。

まだこの本は読んだことはないのだが、この記事を書きながらこの本を読むと良いのではないかなと思った。

自分でも読んでみようと思う。

 

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)